黒岡春日神社の能舞台 青山忠良

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篠山藩主・青山忠良(ただなが)1835-1862
 第13代藩主(青山家として第5代藩主)
 --1609年築城以来、
   松井松平家1代(康重1619岸和田藩に転封)・
   藤井松平家2代(信吉・忠国1649明石藩に転封)・
   形原松平家5代(康信・典信・信利・信庸・信岑
                1748亀山藩に転封)・
   青山家6代(忠朝・忠高・忠講・忠裕・忠良・忠敏
                 1871廃藩置県)

1835年(天保6年)父・忠裕が老中辞職し、家督相続をした。
  1804年生まれだから、31歳
 その二年後(天保8年)寺社奉行
       天保11年・大阪城代
  そして、1844年(天保15年・弘化元年)老中就任
    いわゆる出世街道・・・

   -この天保15年、
     江戸城火災(6月に本丸焼失)など
      災害などが理由で改元したとか・・・・
    ---それにしても、改元が12月2日と
             (もちろん旧暦)

 そして、老中に就任が12月28日(!)
        --土井利位の辞職が10月。
  その前に別の辞職が5月にあり、
      6月に就任したのが「水野忠邦」。
   実は「水野忠邦」は天保14年に罷免(失脚)され、
    なぜか再度、
    しかしながら、8ヶ月ほどで、また辞職・・・・
    --いわゆる教科書で習った「天保の改革」だが・・・
       (この人は小説の材料になるほど、
            たくさんの功罪・・が)
 
   前年の天保14年に就任したのが福山藩主・阿部正弘
    -この阿部が押す人材(一橋慶喜)との政争に敗れ
        辞職した(させられた)のが「忠良」、
        1848(嘉永元)年5月3日のこと。 

この時代、黒船とか、尊王攘夷とか、
  権力抗争も相当なものだったのだろうか・・・



お苗菊
 忠良が大阪城代の頃(1840年)、「お苗菊」(当時の呼び名は違うだろうが・・・・)を幕府から拝領したとある(父・忠裕の長い老中職の関係があったのかも・・・)
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〖越訴〗
忠良が大阪城代のころ1843・44(天保14・15)年、越訴(オッソ)があった(今田新田村・西岡屋村)と。



父・忠裕が開窯した「王地山焼」は、皮肉なことに、老中罷免になった(1848年)頃が最盛期だったそうだ・・・・、そして1868年(明治維新)の時に廃窯となった・・・(今は場所は変わっているが、復活している)
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老中を辞めても、京都(いや日本中)が騒がしい、危険な時代・・・
 1854(安政元)年には「京都守護で七条口の守備」を命じられている。

篠山藩三大大火事の一つといわれる「水沢焼」があったのが1856(安政3)年。
 --このあと。東堀端から「蛤小路」ができたとのこと・・・・・
地図1684年の城下町(448x338) 
 ーー1684年の地図とのこと
    東堀端の通りに注目
明治初めの地図 (373x448)  
 明治になって、幕末のころの地図
   --拡大して
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  小路が判りますか!? 
   現在は、拡幅工事されていますが・・・・

1859(安政6)年 10男・忠誠(タダシゲ)が誕生 
  ---現・鳳鳴高校の基を作った。11男・忠惇の子・忠允(タダコト)を養子にする
本殿・その横に説明板
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説明板にあるように、「小桃源」の扁額を玄関で拝見。
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1860(万延元)年には 福井組(今でいうところ福井地区)で強訴2000人とある。 
        それだけ年貢の取り立てが厳しかったのか・・・

 1861(文久元)年、春日神社能舞台青山忠良が寄進
         西日本で有数の能舞台だったとか・・・・
     この能舞台で、今も続く【能】。
     歴史と伝統を篠山に根付かせたひとつ。
篠山市のHP・春日神社能舞台
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この能舞台は、覗けるようになっている・・・・
 舞台。
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 ーーー明かりがほとんどなく・・・・
そして、床下には「日本六古窯」の一つ「丹波焼」の甕が・・
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 ---音響効果のために。

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  --忠良の肖像画がないものかと、
       ネットで調べたが出てこない・・・・。

そして、1862(文久2)年56歳の忠良は隠居して、
 28歳の忠敏(タダユキ)が藩主に。
  ---忠良は病気だったとも・・・。
   (忠敏は明治6年に死亡・・・)


幕末・明治維新(1868年)まで、
 あとわずかの1864(元治元)年 逝去。。。。。
 

2017年1月1日、新年を迎えての【能】
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 --この3枚の画像は、お参りされた知人にお借りしました。

わずかの資料からだけで決めつけるわけにはいかないが、
 忠良は大変な時代を過ごしたと。。
 --父が出世街道を。31歳でやっと藩主。
    内心、父と同様にと出世街道を。。。。
  しかし、政争に負けて老中を罷免(?!)され、
   時は幕末に向かい、地元・笹山でも大変だったかと。。
  子沢山で、犬山城主は忠良の子が養子に。
   文化も後世に残し・・・・・


テーマ : 丹波篠山
ジャンル : 地域情報

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是非、篠山においでください。
勝手な情報がお役に立てば、良いのですが・・・・

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