義経×富樫=安宅関 その子孫が「永沢寺」・「洞光寺」

義経伝説』は篠山にたくさんある。
 その真偽のほどは判らない・・ 
 いずれにしても、「京」から「一ノ谷」に向かって、
  篠山を走り抜けたことには間違いがない。
 
義経肖像画250px-Minamoto_no_Yoshitsune 

調べると・・・
 平治元(1159)年生まれ、と。
 
 平治の乱(平治元年12月9日=1160年1月19日)で、
  父・義朝は平治2年死亡(月日・場所。いろいろな説がある)

 義経は、母・兄と共に大和に
  11歳の時(異説アリ)、鞍馬寺へ
         遮那王しゃなおう)と名乗る
   寺を出奔し、承安4年(1174年)3月3日、自ら元服
      (場所など、いろいろな説)
       15歳か?! 義経と名乗る
  安元(1175~77)のころ、
     平泉・藤原秀衡で庇護を受ける

 治承4(1180)年
    平氏打倒の兵を挙げた頼朝に向かい出立
 寿永2(1183)年11月入京できず、
       近江国から伊勢国に移動していた
  平氏・木曽義仲・後白河院の混沌の時・・・
 
   --伊勢三郎義盛との出会いか?
   **浜谷に、供養塔が残っている・・・

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ブログ・伊勢三郎の供養塔2014.3.7:http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-372.html


  寿永3(1184)年1月、範頼が合流し入京。義仲敗死
  西国から福原に戻りつつあった平氏を追討の命を受け、
  2月4日(1184年3月17日)、播磨国へ京を出発
  2月5日三草山の戦い

 篠山市のHP・源義経①:https://www.city.sasayama.hyogo.jp/siryositu/burari16.html


 篠山市のHP・源義経②:https://www.city.sasayama.hyogo.jp/siryositu/burari17.html


 篠山市のHP・源義経③:https://www.city.sasayama.hyogo.jp/siryositu/burari18.html


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   ---義経が奉納したと伝わる「鞍」
 
  --2月7日「一ノ谷」である

 --ともかく、ドラマチックな人生で、何が真実か良く判らない。源氏の流れをくむということと平氏最盛期でもあり、素性を明かすことのできない人生で、兄・頼朝とはまた違う意味で、辛い幼少の時期であったかと・・・。そして、後年、軍記物とか、歌舞伎とかで脚色されてしまって、真実がより不明になったのかも・・・・

興味深く調べてみたくなったのは、
   奥田氏の「多紀郷土史考」上巻128頁
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 -歌舞伎「勧進帳」での安宅関
   --それなりに「跡」があるらしいのだが、「関所」があったかどうか疑問視されているとのこと--
  それはそれで、「富樫左衛門泰家」が安宅関の関守
  

天鷹祖祐禅師(てんようそゆうぜんし) について

永沢寺住職が(2016.6.28)に書かれている一文が興味深い。
天鷹祖祐禅師は加賀、富樫監物秀家の次男で、富樫左衛門尉の孫に当たります。この富樫氏は安宅の関守であって、歌舞伎の勧進帳で知られるように義経、弁慶を無事通関させた人物です。一方、長澤義遠は義経の孫に当たると云われ、これらの因縁により長澤氏が当寺の建立に助力を申し出たともいわれています。

しかしながら、義経が亡くなったのは文治5年閏4月30日(1189年6月15日)(享年31歳)とすると、この永沢寺の建立は1370年頃と寺の縁起にあるので、この間およそ200年近くあり、「孫」の世代となると、残念ながらいささか年齢に不具合が生じる・・・・

が、「孫」がたくさんいたとか、あるいは「子孫」と考えれば、ありうるかも・・・

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この永沢寺から、篠山の「洞光寺」に係わりがある。
天鷹祖祐禅師が34歳の時、多紀、氷上郡最初の曹洞宗寺院として創建したとある。

https://www.city.sasayama.hyogo.jp/rekishi/53sasa/53070.html


ブログ:2013.10.27篠山ユネスコ、中野先生が最後の講師「ふるさとを知ろう」

http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-344.html


篠山市のHP>丹波篠山地名考>「雲部(くもべ)」
http://www.city.sasayama.hyogo.jp/timei/timei28n.html


一の谷の戦い(1184年2月)が終わったあと9月、頼朝の周旋で河越重頼の娘を正妻とする。「郷御前(さとごぜん)」と称せられ、生まれた娘も一緒に最後まで義経と共にしたと言われている。


義経は、兄頼朝から元歴2・文治元(1185)年に追われる立場となった・・・・
   --元歴2年8月15日改元ーー
11月3日、西国九州へと、300騎を率いて、京を落ちた・・・
現在の尼崎より船出したが、防風のため難破、九州落ちは不可能となった。
吉野に静御前や郎党共々(もちろん弁慶も・・)逃れるが、安住の地ではなかった・・・

ココから、義経の行方がはっきりしない!
 京都周辺で反鎌倉派の貴族や寺社に匿われたとされる・・・

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篠山の三岳(御岳)で、ここは昔からの修験道の一大聖地でもあり(吉野の大峰山と拮抗するほどで、後に、本家に挨拶云々とのことから、1482年に滅ぼされた)、義経主従を十分匿うことができたであろう・・・・。すでに、静御前は捕まり、義経に関係する(行家など)親族や、伊勢三郎など郎党も次々と殺害されている。
 
頼朝に追われる前から、義経主従は既に、三岳と繋がっていたのかもしれない・・・

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ブログ:2014.11.19小金ヶ嶽中腹の福泉寺跡&楞厳寺跡など歴史ツアー①http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-678.html

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ブログ:2015.11.4[ 小金ヶ嶽 ] 「大タワ」から登って「川阪」に下山 下見で・・・http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-751.html

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ブログ:2014.5.27修験道の三岳に縁あって、5回も登りました。http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-608.html


ブログ:〔三岳の修験道〕について少し勉強してみましたが・・・http://sasayamaguide.blog.fc2.com/blog-entry-369.html


長沢氏(中澤氏)の娘と懇ろになり、子供をもうけたという伝承がある。


「多紀郷土史考」に大山の豪族(大山城)の長沢善種が義経の子で、義種の子・義遠が建寺に助力を申し出たと・・・ある。

 「丹波国風土式」という古文書にも記載があるとのこと・・・・


  また昭和12年に松井拳堂氏が刊行された「丹波史年表」に1184年11月に元暦元(1184)年11月、当時長沢六郎遠種の女源義経の子を妊み、長沢家を継ぎ六郎次郎義種と称す。と記載されている(伝説をも記入したと書かれているので、根拠は不明かも・・・)


増訂丹波史年表 (1) (296x448)

 増訂丹波史年表 (2) (293x448)



文治3(1187)年、奥州に落ち延びる・・・

 文治5(1189)年 31歳で自害


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久しぶりに今田町の「薬師温泉」

ホンと久しぶりになった。
 温泉そのものも久しぶり。
篠山市今田町
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なぜか、駐車場がいっぱい・・・
 お風呂に入ったら、
   普通に混んでいただけ・・・
  --写真は撮れない・・
食事して。
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今田町の食事ガイドの冊子があった。
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いつもお世話になっている「ルーンカフェ」!!
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「波々伯部神社のすべて」ー丹波の祇園さんー 冊子の発刊

波々伯部神社

 以前、伺ったときに丁寧に教わった。
  「ふりがな」は「ほうかべ」と。

貴重な冊子を発刊された。
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もちろん御神体はお目にかかったことはないが・・・
 牛頭天皇(ごずてんのう) 素戔鳴尊(すさのおのみこと)
  島根県出身の自分には、石見神楽での「やまたのおろち」を連想する。

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 個人で、あるいはサークルで、何度か神社やその地区を訪ねたことがある。
  でも、この冊子を読ませてもらうと、知らないことがたくさん。。。
   地元の方なら、まだしも、自分にとっては、ホント貴重な冊子。

若干、スキャナをさせてもらい、勝手ながら紹介させてもらう。
 
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 『弥十郎ヶ岳』。
   初冬にサークル【篠山で楽しく暮らしたい(隊)】で登る予定をしているが、「神社の宮山」と意識しながら挑戦してみたい・・・・

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  2016/4/20 山の整備に役立つのではと、『タケノコ掘り』
 
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  2014/05/04 高城山登山

2015-03-23 047 (448x227) 
  2015/03/26 神社を訪ねて・・







 

8月の第一土曜日が宵山
 行ってみたいが・・・・
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9月の第4土曜日にあるとの『万灯会』
  最近まで知らなかったが、市内あちこちで、こうした行事が残っているとのことで・・・
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「丁田(よぼろ田)」 大山地区・「町ノ田」

多紀郷土史話』(福原會下山人著)に
 『丁田』について載っていて興味深い。

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  昨年暮れに、大山地区を案内していただいた。
   その時に、『町ノ田』地区について説明があった。
    古くからの田園風景と。。。

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『丁』を『よぼろ』とフリガナがあって、
 一村または一郷の公用に雇傭せられた壮丁のこと。
 
 と書いておられるが、
   無学の自分には何のことかわからない・・・
 
 辞書によると・・・・
 ---《「膕 (よほろ) 」と同語源。「よぼろ」とも》
    古代、公用に徴発されて使役された人民。
   律令制では正丁 (せいてい) がこれにあてられる。

 そういえば、教科書で『調』とか学んだ・・・
  ---〔辞書)班田収授の法により
     耕地を与える代わりに
     調 (そようちょう) ・雑徭 (ぞうよう) など・・・

=律令制における基本的物納課税の一。口分田・位田・功田などに課され、田一段につき稲二束二把(のち一束五把)を納めるもの。
= 律令制における税の一。養老令の規定では、正丁 (せいてい) 一人1年間に10日間の労役を提供するかわりに布2丈6尺を納める人頭税であった。布のほか、米や塩など地方の産物をあてることもあった。
調=大化の改新では田の面積および戸単位に、大宝律令では人頭税として課せられ、諸国の産物(絹・綿・海産物など)を納めたもの。 (よう) とともに都に運ばれ国家の財源となった。

『丁』について
 福原氏の説明では
  --古への丁は20歳から60歳までの男子で
     強健な者を雇傭して、公用に当たらしめた。
   その費用として、
     公田よりコレに充てたものを「丁田」。

多紀郷土史考』で奥田氏は
  耕田が三反あたりの小区画が多い中、    
    たまたま一丁田の大区画ができ、
        そのまま村名になったかもと、
  あるいは、荘園時代の東寺領であった頃、
    「田丁(田ヨボロ)」と言うのがあり、
     そこから「丁の田」になったかもと・・・
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いずれにしても
  荘園制、地頭時代とあるものの、
  古い時代の歴史を残す「小字」名が奥深い。。。 
 

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『卒哭』 郡家・長楽寺

郡家・長楽寺住職の安達さんから
      勧められて読んでいます。

卒哭』(そっこく)

  少しずつ読めばよいと冒頭に書いてあり、
      ホンマに少しずつ読ませていただいてる。

 住職の父上が著者。

機会があれば、皆さんもどうぞ!!

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撮影がまずく、ボケていて、すみません。
   スキャナが調子悪いため・・・・・・・・

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是非、篠山においでください。
勝手な情報がお役に立てば、良いのですが・・・・

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