- 2023-06-18 :
- 参加しました
「丹波篠山文化顕彰会」のイベント(宮田・板井)
2012‐08‐17のブログ>足立洌氏による篠山層群での化石の話ブログを検索して思い出したようなことで、化石の講話の内容は恥ずかしながら記憶にない・・・
2014-10-17のブログ>加藤善朗氏の講演のあと宮田地区を探索善導寺の薬師如来仏の講話の中で、天誉覚山の墓碑について触れられ・・・
2017‐11‐10のブログ>赤穂さんに案内してもらった西紀地区板井地区と宮田地区を丁寧に案内していただいた。
2020‐12‐02のブログ>宮田地区を「かみさん」と散策
2022‐11‐02のブログ>西谷地区から宮田地区をちょこっと散策
西紀支所前に集合し、出発(ゾロゾロと歩いて・・・)
ーーー大森作之氏による詳しい説明を聞いた
---細見氏の説明で、今更ながらやっと解った、墓地と隣接していること。
「ムラの境界にお札」
ーームラの東西南北の境界にとのこと・・・初めて見聞した
「宮田の地蔵堂」
ーーー背後の山の斜面にササユリが咲いていた
「宮田の力士碑」
ーー側面に俗名が彫ってあり、案内していただいている細見さんの縁者とのこと
ーーよく見ると左下に「徳本」と読める。庚申塔は読めない。
ーー同行していただいていた久下さんが祀られたと
「久下さん宅の棟瓦」
ーーー足利尊氏と久下氏との歴史伝承の名残り・・・
「浄福寺跡の天誉覚山上人碑と松平信孝墓碑」
市のHP>光照寺・宝篋印塔・足利義高の墓
「道標」
ーーマチの中心地に建っている(道路整備の影響で、少し移動されたとのこと・・)
市のHP>道標(道標)宮田集落の中央、県道篠山三和線と旧県道篠山長安寺線の交叉点にある道標です。宮田は、中世には市場として、江戸時代には宿場町として賑わった土地柄です。ここを通る西国巡礼の旅人のために、第25番札所「播州清水寺」から第26番札所「丹後成相寺」への道案内のため建てられたものです。高さ145センチメートル、幅30センチメートルの石角柱に東面「なりあい兵主山 」、南面「たしま」、南面「たしま」、西面「すく京いせ」、北面「すくきよ水」と刻まれています。また、この道標には、天保15年(1844)に当時の高屋村「文左衛門」が建立したとの銘も残されています。
西紀支所前に戻り車移動し、「黒豆の館」で弁当
午後の部開始:車移動 (お腹を満たし、チョット眠たいが(笑)・・)
「川内多々奴比神社」
市のHP>河内多々奴比神社(かわうちたたぬひじんじゃ)・二宮神社・たらちねの銀杏・籾塚 「特選神名牒」「神祇志料」といった歴史資料によると、古代より天皇の楯や矛を製作していた氏族集団「楯縫氏」の祖神「彦狭知命」を祀るとあり、楯縫神社が時代とともに転訛し多々奴比となり、祭神も変わったのではないかと思われます。
ーー「川内」と「河内」とあるのですが、市の「歴史文化基本構想資料編」によれば「河内」となっていますので・・・・。
「上板井の道標・地蔵・廻国塔・七廻り石」
ーー以前訪ねてきたとき「七廻り石」が判らなかった・・・現状半ば埋まっている状況で、川内多々奴比神社の祭りの際、ここまで来て、七廻りして御幣を捧げる石とのこと・・
「板井城址」
田中豊茂氏の案内で登った、それなりに登れる道が残っているというか整備されていた
---お堂が取り壊されていたのが残念だった
市のHP>板井城址 上板井集落の西北に位置する通称「城山」に営まれた中世の山城で、丹波守護の「山名」が年間に城を築いたとされます。戦国時代末には、「山名小太郎」がこの城を治め、明智の丹波攻めにより、天正6年(1578)に落城したと伝えられています。現状で確認できる郭は、主郭(20×16m方形)、第2郭(19×28m)、
第3郭(20×30m)で、第3郭西側に土塁の痕跡が遺存しています。板井城のある丘陵は周囲を小坂川によって隔絶されており、自然の要害の地を選択し、城が築かれたのでしょう。
「上板井の弘誓寺」
住職が丁寧に説明していただいた。
市のHP>三尾山弘誓寺 大化年間に「法道仙人」によって創建され、後大同3年(808)に、天台宗の開祖「伝教大師」により中興と伝えられます。その後、文治4年(1188)に焼失しましたが、観音信仰の厚かった三尾山城主「赤井刑部幸家」によって天正年間に再建されたと伝えられます。同寺には、彼が寄進したという涅槃図(市指定文化財)や城中で祀っていたという大日如来座像が残され、境内には彼の墓碑も残されています。
弘誓寺境内で解散となった。。。
解散後、『打坂の大師堂』について尋ねさて貰うことができ、住職によれば、薬師如来と十二神将は公民館に祀ってあるとのことで、既にお堂はなくなっているとのことが解かった
2021-04-27のブログ>ちょっと気になる>打坂の大師堂
ちょっと疲れた・・・久しぶりの戸外活動・・・・帰宅してから考えてみると「熱中症」だったかも・・・・でも、「歴史の浪漫」を感じながら、目いっぱいの妄想を楽しむことができた一日だった。。。。
- 2022-12-17 :
- 参加しました
籾井城跡に登りました。丹波篠山文化顕彰会
2022-10-15のブログ>浜谷から寺内の古代史
今回は福住公民館に集合し、籾井城址の登り、午後は安口(はだかす)城址を中心に座学
講師は土佐正彦氏
雨が降りそうな気配だったが、意外にもたくさんの参加者だった。
10時に出発し、「籾井川」を渡る。その「小井根橋」を渡る時、左前方の山手に「鳥居」が見え、そこから登るとのこと。。。
『井根』については、先日知った。。。
2022-11-26のブログ>曽地口の井根口橋
「多紀郷土史話」「多紀郷土史考」に説明があった。いわゆる『溝』と・・・「うずわ(渦輪)井根」という名の水利溝もあるとのこと。
鳥居には『役ノ行者』とあった。
獣害用の柵を通って、比較的整備された道を登ると、「水」を飲める場所があり、さらに登ると「お堂」があった。ーーー地点登録を忘れてしまい、地図登録できず・・・
緩い坂、キツイ坂、まぁまぁ元気を保ちながら登ることができた
『籾井城址』
思った以上に広い敷地
資料の地図と比較しながら・・・よく判らない(笑)
でも樹木の間から見下ろすと、篠山東雲高校が見えた。
下りは、途中から山肌を滑るように降りて「本休寺」に。
「重森三玲氏」の作庭とのこと・・・
のちにちょっと触られているのかも・・・
2018-03-18のブログ>重森三玲氏の庭
2019-01-31のブログ(01-19)>重森三玲氏の住吉神社・庭の整備作業
寒く冷たい竹の切り出しと磨き作業だったが、良い思い出
会館に向かって、「傘」をさして歩いた。
籾井川を越える「北山橋」
国道を歩きながら、「不動坊橋」の名前に関心を持ったが、越える川は『水無川』(今日は水が流れていた・・・)
会館の部屋は暖かく、寒かったことを忘れたように、昼食を済ませた。
午後、座学・・・お腹の具合と暖かさの加減で眠気との勝負・・・写真を撮り忘れた・・・・
近くには、「稲荷神社」もあった。
1972年だったか、廃線となった「福住駅」の説明板も。
2014-06-21のブログ>ガイドの研修
次回は2月18日(土)とのこと
2017-05-28のブログ>河原町から池上へ
2015-3-14のブログ>松平康信の多紀33観音・龍蔵寺
2017-04-14のブログ>善導寺・興聖寺跡![]()
- 2022-10-15 :
- 参加しました
「丹波篠山文化顕彰会」のイベント(浜谷・郡家・寺内)
2011-11-23のブログ>古墳探検(訪問)
2014-08-17のブログ>東部地域の古墳巡り
池田正男氏には古墳・山城について、随分たくさんいろいろと教わった。。
2021-04-10のブログ>熊谷・佐倉・寺内地区を散策
市のHP>大賣神社
- 2021-08-06 :
- 参加しました
残念 中止「人権史跡フィールドワーク」
